連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築

(2023.9.4)

VOL.13 板葺き屋根を通して見る日本の歴史


はじめに

 前回は屋根を葺く素材の中でも茅や葦など草に属するものを使用した茅葺屋根の例として世界遺産に登録された白川郷と五箇山の合掌造りの民家を紹介しましたが、今回はもうひとつの屋根素材である木を用いた板葺き屋根について取り上げたいと思います。
 


妻籠宿の屋根

 
 長野県木曽郡南木曽(なぎそ)町の 妻籠宿は木曽川の左岸、蘭(あららぎ)川に沿った谷筋に南北に連なる宿場町です。慶長6年( 1601)には中山道の宿駅となり江戸と京都など西国を結ぶ交通の要衝として栄えました。しかし、明治維新後は国道や国鉄中央本線の開通にともない主要な交通路から外れ寂れた時期もありました。これといった地場産業の無い妻籠にとって町を復興させるため残された町並みを観光資源として据え、保存への取り組みが住民主体で始まりました。昭和43年( 1968)からは長野県の明治百年記念事業の一環として町屋の解体復元や修理による修景などの町並み保存事業が行われました。さらに昭和46年には 「妻籠宿を守る住民憲章」を制定し、町並みだけでなく周囲の農地や山林を含めた景観までも保存するようになり日本の町並み保存を牽引する存在ともなりました。その成果により昭和51年には 重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 

図1 妻籠宿の町並み
旧中山道の妻籠宿の町並みを桝形跡から望んだ姿。馬籠峠に向けて徐々に登る街道に沿って平入の町屋が並んでいます。腕木に支えられた庇や縁高欄と緩い屋根の軒先を飾る鼻隠しと木製の雨樋が高さを変えながら連なる姿が印象的です。 (作画:木岡敬雄)


 
 狭く曲がった街道の両側に 出梁(だしばり)造り(注1)の平入の町屋が連なる景観は復元保存事業によって甦ったものですが背景の山々と相まって幕末の宿場町の姿を彷彿させます(図1)。現在家々の屋根は金属板や瓦などに置き換わっていますがもともとは板葺きの石置き屋根でした。
 

注1:建物の側柱上の太い横材(胴差)より外側へ梁や腕木などを伸ばして出桁を受け、そこから2階の柱や屋根の庇を支持する構造で、1階より迫出した2階や深い軒の出によって陰影に富む町並みが作りだされています。出桁造りとも言います。

 

石置き屋根

 
 木曽などの山間部で木材の入手が容易な地域ではかつて石置き屋根の民家が多く見られました。石置き屋根に共通して見られるのは緩やかな勾配と深く持ち出された軒の直線的な屋根の姿です。屋根に使用される板はクリやトチなどの広葉樹からサワラやスギ、ヒノキなどの針葉樹まで樹種は様々ですが、丸太を年輪に沿って割り成形した台形断面の榑(くれ)木(注2)をもとに殺(そ)ぎ割って作られた榑板や曾木(そぎ)板が用いられます。板の大きさや厚みも様々で長さ 2mほどもある厚い榑板からより小さく薄い杮(こけら)板に近いものまで使われていましたが、長さ1mに満たない曾木板がもっとも多く使われています。
 

図2 石置き屋根の詳細
復元整備された木賃宿の下嵯峨屋。間口3間、奥行き5間の建物で奥の1間は通り庭の土間、手前は表から囲炉裏のある板の間と8畳の座敷が連なる小規模な町屋です。街道に面して大戸と蔀戸が建て込まれ昼間は開放されています。屋根は曾木板を重ねた石置き屋根に復元されており軒先の鼻隠しの下には丸太を刳り貫いた軒樋が見られます。
(作図:木岡敬雄)


 
 これらの曾木板を屋根の垂木上の小舞に重ねて並べ、一定の間隔で丸太などで押さえ、さらに石を重しとして据えた屋根が石置き屋根です(図2)。屋根板を固定していないのは釘が貴重品であったことに加え表面が傷んだ場合に裏返したり差し替えたりするのに便利だからです。屋根の軒先には鼻隠しが側面には破風板が木栓で垂木や母屋に取り付けられており、曾木板が滑り落ちたりずれたりしないように作られています。曾木板の先端と鼻隠しの間には隙間があって雨水はここから下にある雨樋へ落ちるようになっています。街道沿いに連続して連なる鼻隠しや破風板の姿は宿場町の景観を構成する重要な要素ともなっています。
 

注2:山中で切り倒した丸太を一定の長さに切り、ミカンの房を割る様に放射状に2等分から8等分に割って成形した台形断面の部材。流通材として古代より見られ、これらを薄く割って屋根材にしています。

 

板葺き屋根の変遷

 
 石置き屋根も葺き材が木の板であることから板葺き屋根のひとつです。一口に板葺き屋根といっても長さが数メートルにも及ぶ厚い長板を使ったものから長さの短い薄い板を何枚も重ねて用いたものまで様々でその葺き方も異なります。
 
 古代の板葺きには棟から軒先まで1枚の長板で葺き下ろすものもあり、記録を見ると長さ 6mもある長板同士を隙間なく並べて、その上に合わせ目をずらして重ねる屋根もありました。時代が進むにしたがって板の長さは短くなり、何枚もの板をずらしながら棟に向かって重ねて葺くように変化していったようです。縦挽鋸が普及するまで板材を拵(こしら)えるには木目に沿って殺ぎ割って作るしかなく、拵えやすさもあって次第に長さの短い薄い板へと変わっていったのでしょう。板葺き屋根は檜皮 (ひわだ )葺など樹皮を用いた屋根と同様に緩い勾配が可能ですが、重ねて葺く関係で実際の屋根勾配より葺く板の勾配が緩くなり雨水を屋内へ呼び込む恐れもあります。このため3寸5分勾配(約 20度)辺りがひとつの目安と言われています。
 

図3 上杉本「洛中洛外図」に描かれた屋根葺き。
狩野永徳によって描かれた上杉家伝来の洛中洛外図屏風に描かれた屋根葺きの様子。景観年代の考察から室町時代後期の京都の様子を描いた屏風絵と評価されています。京都の上京と下京を結ぶ室町通りに面する町屋で屋根の一部葺替えの様子が描かれています。町屋の下では真新しい曾木板が用意され、屋根上では親方がそれらを並べる様子が描かれており、脇では石置きに備えて押さえの竹を割る姿も描かれています。(作画:木岡敬雄)


 
 室町時代末期の京都の姿を描いた屏風絵などを見ると郊外では茅葺の民家も見られますが洛中の町家の屋根は基本的に石置き屋根が主であったことが分かります(注3)。曾木板を小舞の上に重ねて葺き、軒に平行に竹の押縁で押さえ、さらに軒先から棟に向けて直角方向にも押縁を渡しその上に石を置く石置き屋根です(図3)。屏風絵では瓦葺や檜皮葺は例外的な存在で寺社や御所と公家の屋敷など限られており、武士の屋敷なども多くは榑板を押縁で押さえた板葺き屋根として描かれています。武士の中でも室町将軍邸だけは他と異なり檜皮葺で大きな違いが見られます。住まい手の身分や立場の違いが屋根素材の相違に表れていることがよく分かります。
 

注3:江戸時代になっても町屋の多くは石置き屋根でしたが頻発する火災に対する備えとして屋根上に土を被せたり蛎殻を敷き詰めたりと延焼防止の工夫が見られます。17世紀末に桟瓦が普及するに及んで江戸などの大都市では桟瓦葺の町屋が主となり板葺き屋根は見られなくなりました。一方で木材の供給が容易な山間部では引き続き板葺きの石置き屋根が用いられていきました。

 

石置き屋根の本堂

 
 前回の連載で紹介した合掌造りで有名な白川郷の荻町集落から庄川を遡ったところに荘川村中野の集落がありました。現在は御母衣(みぼろ)ダムのダム湖の底に沈んでしまい昔の面影を偲ぶものはありませんが、かつてこの集落の中心に浄土真宗の照蓮寺がありました。庄川沿いの地域は浄土真宗の信仰が厚いことでも知られていますが、その中でも照蓮寺は多くの末寺を抱えた中心的寺院でした。寺自体は江戸時代初めに飛騨高山城下に移転し東本願寺高山別院となりますが、中野の地には創建時の本堂がそのまま残されて白川郷の末寺を統率する寺として存続していました。ダムの建設に伴い、現在、高山市の城山公園に移築されています(図4、5)。
 

図4 照蓮寺本堂
高山市の城山公園に移築された照蓮寺本堂。移築前は右手の建物正面が東向きでしたが敷地の関係で現在は西向きに建てられています。角柱に簡素な組物を使用し建具の舞良戸や落縁を区切る脇障子からも住宅建築である書院造の本堂であることがよく分かります。下から見上げると屋根の姿が少ししか見えず、創建当初は軒反りや屋弛みはあるものの民家の屋根と変わらない榑板葺きの石置き屋根であった可能性が指摘されています。(作画:木岡敬雄)


図5 照蓮寺本堂の平面図
本堂は桁行7間、梁間9間の規模で周囲の落縁には深い軒を支え、降雪時の雪囲いのための柱が縁先に立っています。本堂内部は畳敷きで床の一段高い内陣と外陣に分かれ、外陣は建具の無い広い空間となり多くの信者が一堂に会することが出来るように造られています。内陣に仏壇はなく代わりに名号などを架ける押板が設けられ簡素な造りに徹しています。内陣の右手の南余間は外陣と同じ床高で本堂内部が左右対称でないところに初期の浄土真宗本堂の特徴が良く表れています。(作画:木岡敬雄)


 
 本堂は正面7間、奥行き9間の規模で柱は総て角柱で周囲には内側に障子が入った舞良戸が建て込まれ、縁の鼻先には軒先の支持を兼ねた雪囲いの柱が建つなど一般的な寺の本堂とは異なる姿です。柱上には斗や肘木による複雑な組物はなく舟肘木と呼ばれる簡易な組物で書院造など住宅建築の造りです。本堂の創建時期を記す史料はありませんが本堂の平面や細部の意匠から室町時代末期の永正頃( 15041521)と推定され重要文化財に指定されています。
 
 しかしこれ以外にも照蓮寺の本堂を際立たせているのは勾配の緩い入母屋屋根の存在です。移築前の屋根は6寸8分(34度)勾配の杮葺きの屋根でしたが移築に伴う解体調査の結果から創建当初の屋根は棟から軒先までの引き渡し勾配が3寸7分(20度)、さらに軒先に至っては2寸5分(14度)以下の勾配であったと記されています。現在の屋根は漏水対策もあって栩(とち)葺き風の銅板葺きに直されていますが、もともとは榑板葺きの石置き屋根であった可能性が指摘されています。室町時代末期とは言え本堂の屋根が石置き屋根であったなど洛中洛外図に描かれた京都では考えられないでしょうが木材資源が豊富であった当地では当たり前のことだったでしょう。
 
 照蓮寺本堂は浄土真宗が興隆する時期の本堂の姿を伝えている唯一の遺構として注目されています。白川郷における浄土真宗の拠点であった道場はしばしば一般の民家とさほど変わらなかったと言われていますが、照蓮寺本堂の規模は後に浄土真宗の本拠地となる大坂の石山本願寺の御影堂と比較しても遜色ない規模でした(注4)。照蓮寺本堂の存在は私たちが思い浮かべる雪深い僻地としての白川郷とは異なり、多くの人々が往来し、報恩講などの祭礼に合わせて多くの信者が参集していた歴史があったことを教えてくれます。
 

注4:江戸時代以降の西本願寺や東本願寺の御影堂と比較すれば決して大きくない照蓮寺本堂ですが、織田信長と10年に及ぶ攻防を繰り返してきた石山本願寺の御影堂が桁行9間に梁間10間ほどと推定されていることを考えると、初期の本願寺の本堂として大きな建物であったことが理解できます。このような本堂が造られた背景には記録にある江戸時代に入って行われた金などの鉱山開発が室町時代からすでに行われ、そこから生み出された経済的な余力が影響した可能性もあるのではないでしょうか。

(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。