雨と生きる。雨を活かす。雨の文化創造を考える。

 
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 建築時評コラム 
 新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 
連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)

 
1987年生まれ。建築家。特定非営利活動法人モクチン企画代表理事/株式会社@カマタ共同代表/明治大学理工学部建築学科専任講師。2012年慶應義塾大学大学院修了、2015年慶應義塾大学大学院後期博士課程単位取得退学。学生時代にモクチン企画を起業し、現在に至る。主な著書に「モクチンメソッドー都市を変える木賃アパート改修戦略(共著/学芸出版社)ほか。モクチンレシピで、2015年グッドデザイン賞受賞。
 
URL
https://mokuchin-recipe.jp/
https://www.atkamata.jp/

YUTARO MURAJI #2     2021.09.21

好き好き大っ嫌い、隈建築

 

 隈建築はすごく好きで、すごく嫌い。 東京国立近代美術館で開催中の 「隈研吾展 新しい公共性をつくるためのネコの5原則」に行ってきた感想。ちなみに3年前、 東京ステーションギャラリーで行われた 「くまのもの」展でも似たようなアンビバレンツな感情を抱いた。作品数が多いから好きな作品もあるし嫌いな作品もある、ってことではない。打率の問題とは少し違う。隈建築に対して、簡単に否定するような人に対しては、 「隈建築の可能性を理解していない」と言いたいし、逆に好きだ!っていう人には 「もうちょっと批判的にみようぜ」と問いたい。そんな好き好き大っ嫌い、隈建築。
 
 展示会場は2つに分かれている。第一会場は「孔」「粒子」「やわらかい」「斜め」「時間」という5つの建築的手法に合わせ、展示タイトルにある「公共性」というテーマに関わる作品が紹介され、途中3人の作家による3つの映像作品が展示されている。つづく第二会場では、復興関係のプロジェクト関係者へのインタビューと 「東京計画2020ネコちゃん建築5656原則」というリサーチプロジェクトをみることができる。
 

好きなワケ

 
 隈建築、ハコではなくインターフェースをつくっているところがスキ。隈建築の可能性は、巨大化し複雑化する社会システム、制度、建物に対して、人々が関わり、主体性や愛着を持つことができるインターフェースをデザインの対象にしている点にある。キュレーションした保坂健二朗は展覧会カタログで、新潟県にあるアオーレ長岡の訪問を経て「自分を含めて、多くの建築ファンが持っている隈の建築についての認識は修正する必要性があることを強く感じた」と語っているが、藤井光による最初の映像作品は、そんな保坂が展示を企画するキッカケになったアオーレ長岡を題材にしたもの。ナカドマと呼ばれる屋根付き広場空間に、外壁や屋根に沿って展開される地元産木材のパネルと、人々の多様なアクティビティの2つの映像が同時に流れていく。背後にあるハコは後景化し、パラパラと浮遊しながら場を構成する「モノ」と、自由に振る舞う人々の「コト」が等価に映し出されていく。展覧会のテーマである「公共性」は、具体的な場所のことではなく、インターフェースをもとに再構成される人々の「行為」、木材などの素材を通して読み込まれる「物語」によって再構成されるコミュニケーションのことなのではないかと感じた。藤井の映像はそんな隈建築のインターフェース性をよく表していた。
 
 また、隈建築の設計対象がハコではなく、インターフェースであると捉えるならば、アウトプットや活動領域の広さにも説明がつく。インタビューでも登場する関係者との(幸福な)結びつきによって、隈建築は容易に特定の敷地や建物の範囲を超え、まちづくり、教育、地域産業など、異なる社会システムへと展開していく。復興プロジェクト、まちづくり、林業大学校の設立など、隈建築は古典的な建物や建築物という単位を超え、様々な展開可能性にひらかれている。こうした建築のあり方はひとつの発明でありとても現代的だと思う。
 

嫌いなワケ

 
 隈建築、どこまでも負け続けているからキライ。インターフェースとしての隈建築は、現れるクライアントや状況と並存することができ、どこまでも受動的な存在でいることができる。スケジュールや予算管理が厳しく、組織内外の意思決定プロセスが複雑で、倫理や政治的正しさに気を使い、ランニングコストやメンテナンスへの配慮も欠かさず、専門分化とコラボレーションへの対応が必須であり、それでもプロモーション効果を最大化し、アイデンティティやオリジナリティの創出が求められ、SNSや雑誌での映えも忘れず、使いやすさやユーザー満足度を満たす必要がある現代社会において、隈建築は相性がよいし、そうした社会の潜在的なニーズに最適化してきた。
 
 しかし、目の前にあるモノとコトを結びつけていくインターフェースとしての隈建築は、背後にある目に見えない外部条件や構造的問題を問う必要性をなくさせる。環境問題、経済格差、高齢化、民主主義の劣化、差別や分断など、現代の課題群に対してイノベーションが求められる現在、体制や状況に順応することを許し、それを可能にする隈建築は現行の社会システムを再強化・再生産し、課題を不可視化することに容易に利用できてしまう。そうしたことに対してこの展示を含めた隈建築受容は十分に批評的なのか疑問に思う。近年の日本社会の隈建築への依存度の高まりは「変化が必要だけど、構造的改革まではちょっと」っていう日本人のダメダメメンタリティが現れている結果である、と言ったら言い過ぎだろうか……。
 
最後の「東京計画2020」はそうした隈建築の道具性をよく表している。アンチである「東京計画1960」において、丹下健三が熱心に社会システムや構造的課題について扱ったのに対して、隈はネコちゃんの視点で見つけたテンテン、ザラザラ、シゲミ、シルシ、スキマ、ミチといった感覚的で原初的なコンセプトを示し、それが扱われるべき社会的枠組みに関して一切触れない。今、目の前にある感覚や、人間や動物の本能性に立ち戻るのは結構なことだが、三毛を飼っている猫好きな僕でもこれには騙されない。政治性や社会的枠組みを吹っ飛ばすことで、ネコちゃんコンセプトは「近代を乗り越える」という標語のもと、どこまでも活用可能になるが、いま必要なのは原理的であることや原初に立ち戻ることではなく、社会の複雑性を抱え込んだうえで、変化や改革を促すビジョンを示すことではないだろうか。問題を単純化するあらゆる言説や戦略に対しては気をつけなければいけないし、近年の隈研吾言説はそのきらいがある。隈ビジョンによって社会の空間的インターフェースはどんどんスムーズでクリーンでエネルギッシュな都市やまちに変わっていくかもしれないが、あれ?それで良かったんだっけ……。
 

隈建築の「社会」

 
 今の日本社会は息苦しい、窒息しそうだ。展示をめぐる経験は、次の時代に必要な希望溢れるプロジェクトとの出会いと、その横で進展していく墜落する社会を同時にみているような体験であった。隈建築そのものの審判をする気は全くないが、そうした状況に対する批評がないのはちょっと……「それは建築家の問題ではなく、社会の問題だ」っていう批判には一切耳を傾けるつもりはない。世界では建築やデザインによって社会システムをよりよく能動的に変えていこうという実践や議論が生まれ始めている。個人や組織の実践を「社会」の側の問題にする発言や態度は価値観が古いので、そう思っている人がいるなら早く捨ててほしい。
 
 隈建築。隈研吾が社会の複雑性に向かい、その道具性に対して自覚的になり、社会的枠組みまで含めて責任を持つような建築(家)モデルを示してくれるのであれば大好き、ネコちゃんでいくのであれば大っ嫌い。

|ごあいさつ

 建築・都市の批評を共有する新しい場づくりを、との主旨から企画された「驟雨異論」。無事、初年度(2020年)分のWEB発信が果たせました。
 
 「驟雨異論」は分野・世代の出自を横超する3氏の執筆者が1年間に渡り、順繰りに時評をリレー式に各4本ずつ連載します。執筆者3氏のシナジーも楽しみで、建築・都市への骨太な時評が期待されるものです。
 
 2020年度の執筆にあたって頂いた北山恒、野沢正光、山本想太郎の各氏には、改めて御礼申し上げます。どれもが期待に違わぬ視点の定まった批評性を示すものでした。大変お疲れ様でした。
 
 遡って考えれば、「驟雨異論」の船出は、コロナ禍での緊急事態宣言発出の最中でした。それはウィズコロナ社会の事態が一気に社会の矛盾をあぶり出す気配と眺めとを示す契機となるものでもあり、建築・都市への批評に大きな問題意識を共有するチャンスでもあります。私は、こんな折からの「驟雨異論」の船出をまさに、時機を得たものと想っているのです。
 
 新年度2021年の新たな執筆者の陣容は、太田佳代子、布野修司、連勇太朗の各3氏となります。一層の批評の多彩さと面白さとが炸裂するはずです。ご期待ください。
 

2021/03/19

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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