建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


MARIKO TERADA #2     2023.9.20

建築家教育AAスクールの学長・アルヴィン・ボヤースキーが試みた教育実験

日本のバブル期に紹介されたAAの建築家たち

 
 私自身がまだ建築を学ぶ大学4年生の1989年。当時、大学で設計を教えてくれた伊東豊雄さんから、ヨーロッパで活躍するAAスクール(以下、AA)で教鞭をとる建築家たちが東京に来ているという話を聞いた。それは、元々雑誌『新建築』の編集者であった鈴木明さんと、黒川紀章さんの事務所で国際会議などの企画をサポートされていた太田佳代子さんたちの主宰する「建築・都市ワークショップ」AAの当時の学長、アルヴィン・ボヤースキーにアプローチして、AAと共同企画して2回にわたって実現したサマースクール(以下、SS)のことで、1回目は19879月に、2回目は19889月に開催された。SS では2年にわたって参加したボヤースキーは、基調講演においてAAスクールで教えたスーパースターの建築家やAAの教育ついて、その魅力を巧みに話し、聴衆を魅了したようだ。彼はSSの講師として、未だ実際の建築を建てる機会がなくアンビルトの建築家であるAAの教員たち(1回目にはナイジェル・コーツピーター・ウィルソン、また2回目にはザハ・ハディッド(デイム・ハディッド)、ピーター・ソルター)を引き連れ、彼らと共に、SSに参加した学生たちの指導を行なった。また1回目のSSは「東京のウォーターフロント」をテーマとし、2回目は「脱構築現場」をテーマにSSを盛り上げていたが、80年代当時の東京の都市的状況や建築の潮流を伺わせるものでとても興味深い。
 
 このサマースクールの話を聞いて以来、友人が留学していたこともあり、AAには大変興味を持っていた。特に1972年から90年までAAの学長を務めた前述したボヤースキーが展開したAAのユニークな建築教育を探ってみたいと思ったのは、やはり私自身が編集者、キュレータであり、建築教育の現場に立っているからであろう。なぜAAでは世界の名だたる建築家を輩出する建築教育が可能だったのか。ボヤースキーの教育改革の内容とその社会的背景を追うことで、その彼のオリジナル溢れるユニークなAAの建築教育の本質を明らかにしたい。
 

AAの新しい建築教育を形づくるインディペンデントなサマーセッション

 
 ボヤースキーは、 AAの教育改革で何を目指し、何を大きく改革したのだろうか。ボヤースキーが 1972年から 73年にかけて行った本格的な AAのカリキュラム再編を論じるには、彼が AA学長就任前の 1968年にシカゴで立ち上げた ”International Institute of Design(以下、 IID)”という組織がロンドンで開催したサマーセッションについて言及する必要があることが、鈴木明さんへのインタビューを通してわかった。
 

1971年に開催されたIID によるSummer Sessionのポストカード(©︎Sampson Fether Morgan)。”In Progress: The IID Summer Sessions” より転載。


 鈴木明さんに、 AA、ボヤースキーの建築教育や出版活動について、また冒頭で触れた日本でのサマーワークショップについて伺ったところ、ロンドンで開催されたサマーセッション (以下、 SS)についてまとめられた ”In Progress: The IID Summer Sessions” アイリーン・ソヌ =編、 AA Publications)という題名の本を見せてくれた。この本は、 1970年から 72年にかけて開催された3年間の SSの活動を紹介するものである。 SSに関わった世界の建築家や批評家、歴史家とボヤースキーとの間でやり取りされたタイプライターで打たれた書簡、 SSのプログラムに関する様々なポスター、地図や SSが行われている写真など、サイケデリックなエディトリアル・デザインは、当時のポップカルチャー、ヒッピーカルチャーを彷彿とさせ、ヴィジュアルだけでなく、建築家たちの、未来に向けた都市・建築に対する熱い眼差しが込められた数々の論考が満載で、見ているだけで楽しく飽きない。ボヤースキーが目指した AAでの教育改革は、この IIDでの実践的な経験が生かされ、継続していることがこの本から理解できる。この IIDでは何を目指し、現場では何が起きていたのか。その辺りを出来る限り読み解くことで、その後の AAでの建築教育の行く末が見えてくるのではないだろうか。
 
 本連載1回目の論考の最後に触れたように、今回の論考では 1970年代から 90年代における AAの教育実験について書く予定であった。しかし、私がこの連載を通じて、 「メディアとしての都市・建築、そして建築家教育」というテーマのケーススタディとして、ボヤースキーの AAでの教育改革を明らかにするためには、前述した IIDSSを論じる必要性があると考え、今回はSS から見えてきたことを論じることにした。なお、これまで日本でもあまり論じられてこなかったこの SSを紹介することで、ボヤースキーの建築教育の思想やヴィジョンの背景がより深く理解できるはずだ。
 

SSが目指したもの

 
 話を戻そう。このSSの計画は、ボヤースキーがシカゴのイリノイ大学の建築学部副学部長を務めていた時代から構想していたようである。各回6週間のプログラムで構成されており、1970年から72年までの3回にわたるSSには、アーキグラムジェームス・スターリングニコラス・ハブラーケンレイナー・バンハムセドリック・プライスコープ・ヒンメルブラウアルド・ファン・アイクヨナ・フリードマンケネス・フランプトンチャールズ・ジェンクスハンス・ホラインコーリン・ロウスーパースタジオバーナード・チュミなど、のちに世界的な建築家として名を馳せる若き建築家たちも、世界中からロンドンに駆けつけ、参加していた。世界の技術革新によるジェット機が普及した新しい時代の到来によって世界は近くなり、このような世界の建築家をロンドンに集めることができたのである。
 
 このように世界各地から建築家、そして学生が集まる豊かな環境において、6週間という濃密な集団生活のなかで経験する対話や活動を通して、いかに個人間のネットワークを構築していくか。そして学生たちがスキルと理論を身につけて自国へ帰った後も継続的にアイデアを発展させることができるのか。学生たちも徐々にコミュニケーションのスキルを身につけていきながら、対話で得た知見を発展させ、様々なアイデアを提案したに違いない。この学生・教員間のコミュニケーションを通じて世界的な情報のプラットフォームを構築することが、このIIDで目指されたボヤースキーの戦略であった。
 
 このIIDPRの戦略として、書簡を郵送するという手段が取られた。書簡を送るにあたり、ボヤースキーをはじめ、ジェームス・スターリング、セドリック・プライス、コーリン・ロウなどIIDの中心的なの講師陣の肖像画の写真による、野球カードを模した郵便切手がデザインされた。このユーモアあふれる魅力的なビジュアル・アイデンティティを作り上げた点も、ボヤースキーによるIIDのユニークなPR戦略である。
 
 また、このサマーセッションを実現するために、ボヤースキー自身が学生集めに奮闘し、「優秀な学生を1、2人推薦してほしい」と書簡に書いて依頼し、様々な学校に送った。その甲斐あって、最終的には予想以上の多くの学生が集まったと言われている。SSが実施されるまでの計画のプロセスを紹介するにあたり、ボヤースキーはIn Progress “というタイトルで小冊子を作り、IIDの多くの関係者に送った。この冊子の制作は単なる宣伝のためではなく、相互に利用し、理解しあう、メディアとしての独自のコミュニケーション・システムの新しい形の探究でもあったようである。
 
 SSでボヤースキーが目指したものは、既存の教育方法を超えて、学生たちが「コミュニケーション」を通じて、刺激・関心を高め、自らのテーマを発展させていくこと。また、このコミュニケーションは、学生自身がこのイベントの後に自国に帰った後、この小冊子の存在によってあらためてSSでのアイデアを継続して発展させていくことを一番期待していたのではないだろうか。つまり、学生が社会人となるプロセスにおいて、彼らの建築家としての思想構築のベースとなるプラットフォームづくりを、ボヤースキーはIIDで実践したのである。
 

1968年の学生紛争から次なる建築教育を求めて

 
 なぜこのような世界的なスケールのSSが計画されたのか。当時の世界の建築教育の状況をみると、1960年代後半から社会的な不安が広がる中、ヨーロッパやアメリカ・ニューヨークの建築スクールにおいても、当時の教育に対する政治・経済的な権力構造への反発、また近代化が目指す理想に対しての正当性を唱える学生運動が世界各地で行われていた。特にアカデミックな建築の世界で忘れてはいけない史実として、19685月にフランス全土で学生紛争が勃発し、近代建築教育において規範として数多くの教育機関で参照されたフランスのエコール・デ・ボザール(以下、ボザール)の建築教育の解体があり、ボザールの建築教育手法を超えて新しい建築教育手法の模索が各建築教育機関で試みられた背景がある。
 
 ボヤースキーは、この1960年代の建築教育に対する失望があった。特に1968年の学生紛争による混乱による対話の欠如、政治的言説からの建築の不在に対する失望と怒りは大きく、IIDの設立の計画も、このフランスの学生紛争が起こっている最中であった。そこには実験を重ねながらも実践を経て確実なものにしていこうというボヤースキーの熱い思いが見えてくる。IIDに関する研究論文をまとめたアイリーン・ソヌによれば、ボヤースキーは、各地の建築スクールでの混乱によって「学校というコミュニティが孤立し、退屈し、しばしば知的な栄養不足に陥るという普遍的な症候群」に苛立ち、「学生、教育者、建築家が国際的な教育方法論、設計戦略、理論、最新のプロジェクトに触れることができる単一のリソースが必要である」「建築スクールの狭い専門的な関心事が、常に変化し続ける建築に完全に関与させることを妨げている」と考えていたようだ。そこで、ボヤースキーは「システムにノイズを入れる」、つまり既存の学問的なシステムの外での活動を行うこと、何より国際的に活動することを目的として、SSを実践したのである。そして、ボヤースキーは人類学や計画、政治、歴史、メディア、住宅、エネルギーなどの異分野への関心やアプローチを目指し、国際的に多様な学生のグループをつくりあげたいと考えていた。ボヤースキーはさらに「教育学と消費」という概念をミックスさせ、IIDのプラットフォームを建築のアイデアを競う「マーケットプレイス」として実験すべく提案した。これが後のAAの教育改革で応用された。
 

建築教育の本質とは

 

1971年のSummer Sessionが紹介されたイギリスの建築雑誌”Architectural Design”1972年4月号(左)、1972年のSummer Sessionが特集されたAD1973年5月号(右)。


 IIDによるこの 3年間にわたる SSは、毎年開催場所を変え、 1970年に ロンドン大学バートレット校1971年に AA、そして最後の 1972年は Institute of Contemporary Arts(ICA)で開催された。この SSには、6週間のイベントごとに世界中の建築学生がロンドンに集まり、国際的に活躍する建築家、理論家、プランナー。歴史家による専門的なワークショップ、セミナー、レクチャーなどの濃密なプログラムに参加した。当時のフライヤーやポスターを見る限り、毎年明快なテーマがあったわけではないようだが、ロンドンのコヴェントガーデン( SS71)やニューヨークのマンハッタン( SS72)がリサーチ対象となっている。 1972年の 3回目のフライヤーをみていると、マンハッタン・ワークショップはアーキグラムが担当し、緻密なプログラムが組まれている。このような都市的なプログラムが SSで重要視されたのは、ボヤースキーの出自に由来するのだろう。彼がコーネル大学でコーリン・ロウのもとでカミロ・ジッテの都市計画に関する修士論文を書き、その後も都市デザインや都市インフラの歴史的な発展について関心がその背景にあるのではないだろうか。 1970年の SSのワークショップでは、コーリン・ロウがロンドンの都市構造に関するワークショップを展開していることも興味深い。
 
 SSの参加者は、講師陣が設定したワークショップなどのひとつのプログラムを選択したり、複数の選択肢から自分の興味や好奇心に合わせて自由にプログラムをカスタマイズできたり、6週間のプログラムを学生自身で作り上げることもできたという。学生自身がインディペンデントで自由にいられる環境は、 SSでのユニークな学びの特徴であると言えよう。
 
 SSにおける魅力的な専門家や歴史家、批評家たちとの対話から、自らが問題や課題、テーマを見出すという、この高度なプログラム設定は、制度の下にある教育機関では、なかなか実践できないかもしれない。しかし教育の本質を考えるならば、大学の高学年、あるいは大学院レベルの学生を対象とした SSであれば、学生が課題設定をすることは十分に要求して良いだろう。学生自らに問いを立てさせること、それこそが「教育のデザイン」であり、 1968年の学生紛争の後の、そしてモダニズム教育に大きな風穴を開けることになった、ボヤースキー時代の AAの建築教育のあり方に繋がっている。
 

論考協力
・江頭慎(AAスクール教授)
・鈴木明(武蔵野美術大学造形学部建築学科教授)

 

参考文献: Irene Sunwoo (ed.) ”In Progress: The IID Summer Sessions” AA Publications, 2015Igor Marjanovic, “Cheerful Chats: Alvin Boyarsky and the Art of Teaching of Critical Architecture”, 93rd ACSA Annual Meeting Proceedings, The Art of Architecture/The Science of Architecture, ACSA, 2005

(Photo = YUKAI)

寺田真理子(てらだ・まりこ)

 
横浜国立大学大学院/建築都市スクールY-GSA准教授、キュレーター
 
1990年日本女子大学家政学部住居学科卒業。1990-99年鹿島出版会SD編集部。1999-2000年オランダ建築博物館(NAi)にてアシスタント・キュレーター。2001-02年(株)インターオフィスにて、キュレーター。Vitra Museumおよび東京都現代美術館と協同で「静かなる革命 ルイス・バラガン」展をキュレーション。2007-14年横浜国立大学大学院工学研究院特任講師(2011年から都市イノベーション研究院に所属)、Y-GSAスタジオ・マネージャー。2014-18年横浜国立大学先端科学高等研究院特任准教授。2018年より現職。
 
企画編集、共著に『OURS 居住都市メソッド』(LIXIL出版)、『チッタ・ウニカーー文化を仕掛ける都市ヴェネツィアに学ぶ』(鹿島出版会)、『Creative Neighborhoods 住環境が新しい社会をつくる』(誠文堂新光社)、『都市科学事典』(春風社)など。主な展覧会企画に“Green Times”展、“Nested in the City”展、”Tokyo2050//12の都市のヴィジョン展など。
 
URL:横浜国立大学大学院/建築都市スクール"Y-GSA"

 

|ごあいさつ

 
 2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明中島直人寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代難波和彦山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
 

2024/04/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

|Archives

 

驟雨異論|アーカイブはコチラ