野沢正光(のざわ・まさみつ)

 
1944年東京生まれ。1969年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1970年大高建築設計事務所入所。1974年野沢正光建築工房設立。現在、横浜国立大学建築学科非常勤講師など。主な作品として「熊本県和水町立三加和小中学校」「愛農学園農業高等学校本館」「立川市庁舎」「いわむらかずお絵本の丘美術館」など。著書に「環境と共生する建築」「地球と生きる家」「パッシブハウスはゼロエネルギー住宅」「住宅は骨と皮とマシンからできている」など。

MASAMITSU NOZAWA #3     2020.11.20

責任と成果

写真・図版提供:野沢正光建築工房
 
 ご存じの通り建築確認申請についての考え方、運用の仕組み、姿勢はこのところ大きな変貌を伴っている。 2005年に構造計算書の改ざんが露呈した耐震強度偽装事件がひとつのきっかけであるのだろう。以降きわめて性悪説的な法の運用が普通のこととなった。建築士の定期講習義務付けもこれに伴い始まっているが ここで行われている講習内容は明らかに「法に徹し、それに悖ることを戒める」性悪説に基づくものだ。
 
 それほど世の建築士は悪行をなしているのか。 ちびまる子ちゃんのセリフに「私は褒めてもらって育つタイプ」というのがあったと記憶する。建築士講習も叱って育てるのではなく褒めて伸ばしたほうがよほどいいのではないかとさえ思うのだが、いかがだろう。「禁止、禁止」「順法、順法」ではたして良いまち、良い建築は育つのだろうか。現況をポジティブに批評し新たな姿を考え試み提示することが私たちの仕事の重要な任務であり既往の「法」に従順に批評なしに従うことのみでは本来の職能は果たせまい。
 
 もうひとつ、蛇足だが長時間に丸一日を費やしヴィデオを見ることを強いる建築士に義務付けられた定期講習の形は何とかしてもらいたいものだ。受講した経験から内容もクオリティがあまりにも低すぎる。内容と形、何よりその質が納得のいくものであれば余計なことは言わないが、これにかかる費用と時間もバカにできぬ。ただ外注の業者が儲けている、例の構造にしか見えぬ。「従順になれ」というメッセージと苦行が強いられているという思いが強い。それが多くの受講者の思いではないか。一室に集めただヴィデオを見ることによる講習であれば、いっそのことリモートによる講習も可能だろう。ぜひそうすべきである。そうなればこの改革はコロナ禍唯一の成果になるやもしれぬ。
 
 確認申請業務の運用厳格化は審査機関による確認審査の外注、民間下請けもそのことを後押ししている。審査にかかる人員の増加が審査の厳格化と対であることは当たり前だろう。厳格の運用には膨大な言うまでもなく手間がかかっているのだ。また言わずもがなだが新築建築の漸減もこれに寄与していると思われる。新築住宅着工戸数で見ると、 2019年の新規着工戸数 88万戸は着工数が最も多かった 1973年の 190万戸の半数以下である。建築申請一件当たり架けることのできるマンパワーはかなり上昇しているのであろう。
 
 確認申請が厳格に審査されること自体は別に悪いことではない。もちろん違法な建築物が排除されること自身は歓迎すべきことだ。ただ法の厳格な運用とはどのようなことを言うのか、審査は現状どのような運用がなされているのか、その姿勢が問われる。現況の厳格な運用は法の示す「文」への一字一句にわたる厳格な適用にあるように見える。ここに大きな錯誤があるのではないか。
 
 果たして建築おける計画者の工夫、試みそこに現れる姿はそれまですでにある建築物を素材として書かれていると思われる「法文」にいつも適応するものであろうか。とてもそれは難しいことに思える。
 
 だいぶ以前のことだが 「特別避難階段」なるものが登場した折、「なんだこれは」と思った記憶がある。文章を解読するとただひとつの図面がそこに現れるのだ。「階段室」があり、その手前に「附室」がある、そして「廊下」に続く。特別避難階段を規定する法はまず図ありきであり、それを文章化したもののとしか理解しようがないものであった。
 
 端的に言えば建築の基準を「文」として記述することとはどう頑張っても既往の建築物の具体的姿を描きながらの記述にならざるを得ない。
 

300㎡を超える小屋組が木造の建築に係る小屋裏の規定


 こんな例はいくらでもある。一定規模を超えた木造建築の小屋裏の防火のための隔壁、これも明らかに既存の木造建築の姿を頭に描いての規定である。この規定の意図は実はよくわかる。 「小屋裏のある建物」の小屋裏での延焼を隔壁により防ごうというものだ。ただし 「小屋裏のない建物」についてこの規定は想定していない。「法文」の根拠となる絵は一つだけ描かれているのだ。想定していないものについてどうするか、強引にこれを演繹するということが起きる。結果はまことに珍妙なものとなり、のちの見学者のすべての方々から「天井からぶら下がっているもの、あれは何ですか?」と聞かれることになるのだが、我々は悲しいかな主事の指導の通りにしないわけにはいかない。そうしなければ竣工検査済証が下りず約束の期日通りに建物を引き渡せないからだ。戸惑いながら(正直に言えば)半ばばかばかしいと思いながら、この指示に従った記憶は私自身のものである。こんなことは多くの建築家の経験するところであろう。
 

小屋裏のない屋根架構現しの天井面に設けられた「隔壁」


 実に融通の利かない法「文」である。だから本来、法はある性能のひとつの具体例を示しているものと考えるべきなのではないか。同等の性能を持つまたはそれを超える性能を持つと判断できるものについてそれを了承するものとしなければなるまい。そうであれば融通は運用により可能となる。いや融通は大臣認定などルート Bとして用意がある、というかもしれないが、それをたどることの手間と時間と費用は多くの場合膨大であり現実的でない。経済的社会的事情の中で建築は計画されプロジェクトは進行するのである。
 
 実は当の建築主事自身もこの運用に戸惑っているのではないか、とも思われる節がある。何度かこうした事例に遭遇した経過を持つのだが、それは昨今の「自粛警察」もどきの経験である。コロナ禍の自粛警察とは記事によれば一種自警団のごとく率先してマスクをしていない人を糾弾し、帰郷する人々に嫌がらせをする人々のことをいうが、これに似た事例は実はこれまでもいくらもある。街路樹を行政が丸裸にするのも、必要とは思われないところに柵をめぐらすのも指弾されないよう事前に手を打っておく、何か事が起きたとしても何らかのイクスキューズ、言い訳ができる形をとる、これが行政のいわば自警団対策としての予防的手段なのではないか。よくわかる。なんだかつまらないことにいちいち口をはさみ地域社会を融通の利かないものにしているのは、ちょっとした今までにない、場合によってはなかなか面白そうな試みに、いちいち違法ではないのか、などと諫言するものがこの社会には一定数以上いるのだ。結果行政はこうした悪意のない面白い試みに対し善意による緩い運用ができにくい、ということになる。予防的に事前に策を用意することになる。文面に犬のように忠実に前例順守することになるのだ。鶏が先なのか卵が先なのか。
 
 面白いこと明日こうなったらより良いだろうなと思いつつの試みは現行の法文に幾分かそぐわないことはいくらでもあろう。コロナにより交通量の激減した街路を社会的距離の確保と店舗の生き残りのためにテラスとして大々的に活用している例が国際ニュースで紹介されているが、こんな状況下であってもここでそれを行うことのハードルは高い。前例主義の弊害は今次閉塞する社会にいる多くの人の気づくところのはずなのだが。
 
 この国のように人口が億を数え、極寒の北海道から亜熱帯の沖縄までの気候の違いを持ち時に歴史的に貴重なエリアを持つ、地域は様々な個性を持つ。そんな国土に全く一律の法を一律にそれも文面の通り運用する、都市、建築、景観に係る法が一律のものとして策定できるわけはなかろう。建築は地域に固定される。地域はおのずから気候を異にし地形を異にし歴史を異にする。地域それぞれの仕方でそれを定めることが本来であろう。自治体とは文字通り「自らを自主的に治める」ものであり特に地域エリアに係る建築と都市を縛る規定を一律に定めることには無理があることは自明ではないか。自治体の建築主事とは本来自治体行政府に属する建築家、都市計画家でありそのエリアのまちづくりの責任と成果を担うはずの専門職であるはずではないか。場合によれば彼の参画する委員会等が協議の上法令と異なる決定を下すことが許されないはずはない。何らかの理由が肯定されるとき、そこに新たな試みがなされなければまちは変わることはない。それを封じられたとき彼の社会的職能は果たせぬだろう。
 

周囲のコードとは異なる建ち方をしているグッゲンハイム美術館


 フランクロイドライトグッゲンハイム美術館がコード違反、法令違反であることはよく知られているところだ。マンハッタンの街区はご存じの通り敷地に対してゼロロット一定の高さをコードとし、整った街区を形成すること定めている。この規定の中で「法文」を順守したとき、巻貝のようなこの形態が許されるか、許されまい。「法文」の通りであればこの建築は決してあり得ない。市と建築家のやり取りは想像できよう。結果ここで市建築主事はコードを外すことを決断している。答えはこれでよかったのであり市の決断と勇気は結果ほめたたえられることとなる。
 

世界遺産となったシュレーダー邸(photo=Sailko)


  リートフェルトシュレーダー邸も同様な経緯ではないかと思う。長いタウンハウスの端部に異物のようにつながるこの住宅の姿に初めて遭遇した時の驚きの記憶が今もある。これもグッゲンハイムと同様の決定によらなければ存在しなかったであろう。この住宅はいま 世界最小の「世界文化遺産」である。言うまでもないことだが、もちろん脱法を必ず良しとするものではないのではあるが。まちを詳細につくること、工夫しながら少しずつより良いものにしていくことは、こうした様々な検討と試みの結果現れるものであり、一律の法文適用によるものではないはずではないか。
 
 RESPONSIBILITYという語の意味は辞書によれば「責任」とある。「責任」と聞くと何らかの失敗そしてその結果としての懲罰を思うだろう。そうはなりたくないと思えば失敗すること試みることそのことを避けることになろう。試みることを避ける、前例主義に依る、既往の価値にすがるということは結果、自らの判断を自ら封じることになろう。社会的職能に携わる人の本来担うべき役割はこれで果たせるのか。決して果たすことができないのではないか。
 
 RESPONSIBILITYを腑分けしよう。言うまでもないが RESPONSE「応答」と BLITY「可能性」を示す接尾語による語である。この語の意味を応答の可能性を言うこととすればネガティブな「責任」という意味の向こう対極にポジティブな「成果」、「手柄」が見えてこよう。社会的責任とは応答することの可能性に期待し、より多くの成果を求めることに他ならないだろう。そうでなければ職能に係る充実はない。成果もない。
 建築時評コラム 
 新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?

|ごあいさつ

 
 2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明中島直人寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代難波和彦山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
 

2024/04/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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