建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


小野田泰明(おのだ・やすあき)

 
東北大学大学院教授。1963年石川県生まれ。1986年東北大学工学部建築学科卒業。1998年カリフォルニア大学建築都市デザイン学科客員研究員。2007年東北大学大学院教授。2011年以降、各自治体で東日本大震災からの復興の専門委員を務める。2020年 日本建築学会建築計画委員会委員長。2021年日本建築学会副会長。
 
主な作品・受賞歴に「くまもとアートポリス苓北町民ホール」(2003年日本建築学会賞(作品)[阿部仁史氏と共同])、「釜石市復興公営住宅」(2018年度グッドデザイン賞特別賞[千葉学氏と共同])、「プレ・デザインの思想・TOTO出版」2016年日本建築学会著作賞、「計画の実装と行為による空間創出に関する一連の研究」2022年日本建築学会賞(論文)ほか。
 
URL:東北大学ホームページ

YASUAKI ONODA #1     2023.5.2

建築の可能性を発現させるために

 

21と1/4世紀

 
  21世紀に入ってすでに四分の一になろうとしている。しかし残念なことに、世紀の始まりには予想しなかった深い閉塞感の中に、現在の日本はある。 1988年に世界の半分以上を担っていた半導体のシェアは1割となり、近い将来0%になることが予測されている(図1)。長く危険水域にあった出生率も、政府が対策にようやく重い腰を上げたという安堵の一方、出された方針は「異次元」といった勇ましい形容詞に反して、他国の対策や科学的蓄積の精査に基づいた深い戦略性が読み取りにくい、難しいものとなっている。我々は、どこで道を間違えたのだろうか。

図1:日本の半導体シェアの変化と将来予測(出典 = 経産省)


 個人的な話で恐縮だが、今世紀がはじまった 2001年は、立上げから関わってきた 「せんだいメディアテーク」が開館した年であった。そのつながりで建築専門誌に 「説明可能態としての建築をどこまで拡張できるのか?」というタイトルでその先の建築を問う論考をださせて頂いた(小野田、 2002)。過度に説明を要求する現代社会に対して、建築の根源的価値を説明可能な状態に励起することで、対抗しようというものだった。 20年以上前の話で恥ずかしいのだが、未来を見る難しさを考える意味で、少し見返してみよう。
 

公共圏理論

 

図2:ハーバーマスによる公共圏の考え方(参考文献をもとに著者作成)


 論考は、 ハーバーマス公共圏理論によりながら、コミュニケーション可能性を支えるプラットフォームとして公共建築を捉えようとしている。新しい建築によって創出された場所が、公共的発話を人々に促すことで、公共圏が発生し、それによって、経済原理や官僚制といった近代社会のシステムが押し返されるというものだ(図2)。「説明可能態」という言葉は、システムが残酷に求める合目的性への忠誠とその説明のために失われる冗長性を、建築の価値を問いかけ続けることで新たに創出しようという主張である。
 
 実際にせんだいメディアテークでは、こうした公共圏的な事象が、開館以来色々と起こっている。個人的に印象に残っているのは、 2011311日の大災害の後、設計者の 伊東豊雄さんが来館して行われた対話の会だ。震災を実際に体験しながらも、それを言語化して互いに開示することが出来なかった多くの市民が、おずおずと会場に集まって、自らの不安や焦燥感をとつとつと語りあい相互に受け入れていく様は、感動的でもあった(図 3)。
 

図3:せんだいメディアテークでの伊東豊雄氏による震災後対話会の様子(提供 = せんだいメディアテーク)


 しかしながら、 21世紀に入ってからの社会を新ためて俯瞰してみると、状況の推移は残酷で、 2002年の論考で想定されていた未来像は、楽観的過ぎるようにも思う。公共圏は、素晴らしい建築が作られれば、自然に立ち上がるものではないのである。
 
 公共圏論自体についても専門家の間で様々な評価が示されている。 ジョン・トンプソンは、① 公共圏が国家に再び取り込まれる可能性の存在、② 啓蒙的でエリート的に見える価値観、③ イデオロギーに過度な期待が寄せられているようにも思える姿勢、④ 前提とするメディアが本を前提としており現代の情報社会に対応していないこと、といった問題点を指摘したし(トンプソン、 1992)、 ナンシー・フレイザーは、① 公共圏での議論を成立させる条件としての「社会的地位の違いの留保」は可能なのか、② 包括的なひとつの公共圏の正当性はどのように付与できるのか、③ 私的事柄を排除した「共通善」はどのように確立出来るのか、④ 市民社会と国家間の相互依存的性に対してどう離隔を取れるか、という問題点を示している(フレイザー、 1997)。また、 渋谷望は、リスク管理社会、監視社会といった動きの中では、公共圏がリスクを有すると判定された人々を監視する隔離場所として逆機能し得ると指摘している(渋谷、 2003)。
 
 公共圏論自体は魅力的な考え方であり、現在もその力を失っていないと思うが、イデオロギーに傾斜したり共通善を前提としようとする、抽象化の動きには注意が必要であろう。それらを緩和する意味でも、建築や環境に関わる我々が思考を巡らせる価値は大きいはずだ。
 

プラザ・センス

 
 ということで、思想を読み込みつつ具体的なレベルで考えてみたい。人がある場所に集まる動機は、私的で詮無い理由によることが過半で、公共性は事後的に見出されるのが普通だろう。そこには時間を過ごそうとする動機が内在するはずである。そして、合わせ鏡のように、場所には過ごしたいと思える質が担保されていなければならない。
 
 サンフランシスコ市の中心部に数多く整備されたポケットパークを1970年代から丁寧に調べたクララ・C・マーカスとその調査チームは、良く使われているポケットパークとそうじゃないものを分けるいくつかの条件を整理している(マーカス、1993)。非常によくできた分析なので、詳細は、原著を見ていただきたいが、マーカスたちは、広場の周辺に存在する活用可能な資源、広場の物理的環境のディテールが作り上げるインターフェイス、そしてその維持を担う利用者と運営者の協調関係が、巧妙に作用していることを突き止める。特に最後については、「プラザ・センス」と名付けて、時間の中で場所が価値あるものであり続けるための必須の要素であることを示している。
 
 彼女らの研究が明らかにしたのは、都市資源の活用、人が居るためのディテールやサーフェス、運営の三層を連動させながら計画することの重要性であり、ソフトかハードか、イデオロギーか実践かという二元論ではない。コトの発生確率を上げて公共圏を発生させてシステムを押し返すには、企画・設計/施工・運営を分断するのではなく、それらを統合するための意思と必要な資源へのアクセス、さらにはそれらを支える組織が必要なのだ。
 

リスク社会

 
 トヨタカンバン方式で知られるように、近代日本は、そうしたすり合わせに力を発揮していたはずである。科学技術の発展が「リスク」との共存を必然とする社会を作り出したことをいち早く感得したベックは、人々が切り離され、各自でリスクと向き合わざるを得なくなること、そうした変化が社会の枠組み自体を大きく変えることを看破した(ベック、1988)。ベックが予測したように、我々が暮らす現代の社会は、今ここにあるリスクを血眼になって探し、排除しようとする。リスクを絶滅させようとするこの志向は、過剰に進化し、将来の発展のために必要なリスクすらも退場させる。こうした条件下では、説明しにくい「公共圏」は戯言として扱われ、価値が短期間で発露し、だれにも理解しやすいモノだけが生き残ることになる。結果、社会全体が、相互監視を強め、未来に対してリスクを取ろうとする人すらも批判する居心地の悪いものとなってしまう。現代の我々の眼前にある閉塞状況は、悪者探しに奔走して、未来の芽を摘み取り続けた結果でもある。
 
 長い時間を生きなければならない建築において、こうした状況を乗り越えることは並大抵ではない。発注側が長期に発現する価値を理解し、建築家や運営予定者とともにそれを目指す共同が起こらなければならない。現代の日本の公共建築でそれが難しいのは、直接のリスクテーカーではなく、代行者としての行政担当者が、意思決定の中核にいるために、長期に必要なはずのリスクであってもそれを取り除くことが善とされ、短期的合理の実現が目的化してしまうためでもある。こうした環境下で、あえてリスクを整理しながら、企画・設計/施工・運営を横断する方法について、次回は考えてみたい。
 
参考文献

阿部潔、公共圏とコミュニケーション、ミネルヴァ書房、1998
小野田泰明、説明可能態としての建築をいかに生き延びさせるか、新建築2月号、2002
経済産業省、半導体戦略(概略)、2021年6月、
https://www.meti.go.jp/press/2021/06/20210604008/20210603008-4.pdf
渋谷望、魂の労働―ネオリベラリズムの権力論、青土社、2003
花田達朗、公共圏という名の社会空間、木鐸社、1996
ウルリッヒ・ベック、危険社会:新しい近代への道、二期出版、1988
ナンシー・フレイザー、批判理論を批判する-ハーバーマスとジェンダーの場合:マーティン・ジェイ編著、ハーバーマスとアメリカ・フランクフルト学派、青木書店、1997収録
クレア・C・マーカス、キャロライン・フランシス,人間のための屋外環境デザイン オープンスペース設計のためのデザインガイドライン、鹿島出版会、1993
ジョン・B・トンプソン、批判的解釈学—リクールとハーバマスの思想、法政大学出版会、1992

|ごあいさつ

 
 2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明中島直人寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代難波和彦山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
 

2024/04/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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