建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


MARIKO TERADA #3     2023.12.20

個を尊重し、共同的知性・批評的思考を培う、オランダの建築教育研究機関/Berlage Institute

 
 本連載では、第一回に著者自身が携わる横浜国立大学大学院Y-GSAでの建築家教育、そして第二回にアルヴィン・ボヤースキーが、AAスクールの校長になる以前に取り組んだサマースクールを通じての建築教育の実践を、メディアの観点も含めて考察してきた。第三回目となる本論では1990年にオランダ・アムステルダムに創設された,実践的な建築教育研究機関「Berlage Institute」で試みられた建築教育を通じて、社会における建築、建築家の役割を考えてみたい。
 

建築議論の国際的プラットフォーム

 
 19909月、アムステルダムに大学院レベルの設計教育を行う、建築教育研究機関「 Berlage Institute Amsterdam /ベルラーへ・インスティチュート・アムステルダム」(その後、アムステルダムからロッテルダムに引っ越す。以下 BIと表記)が誕生した。 BIはオランダの建築家 ヘルマン・ヘルツベルハーを校長に迎え、新しい建築家教育が世界中から熱意のある優秀な学生を集めてアムステルダムの港にある倉庫で始まった。大学院教育に相当する2年間の6ターム制による建築設計教育を行う、学生数 30名前後の小規模な建築スクールと言えるだろう。翌年の 1991年には、ヘルツベルハーの師でありオランダ構造主義の立役者である アルド・ファン・アイクの名作「孤児院 Orphanage」 (1960)BIの学びの空間となり、 BIの建築家教育が本格的に始動した。
 

ベルラーへ・インスティチュートの初期の教育空間「Orphanage」(アルド・ファン・アイク設計)(写真提供 = 末廣香織)


 
  BIは、国の一般的な大学組織でも、国際的な機関から大学院認定を受けた学校でも専門的な研究機関でもなかった。当時ヨーロッパでは5年制の建築教育を行っていた中で、狭義の学校ではなく、むしろこれまでの教育にはない高度な技術や知識を身につけさせる、いわばリカレント教育を実践していたとも言えるだろう。スクール自体が自律し、独自のプロジェクト教育を実践する、実験的なワークショップ/アトリエであろうとした。また、 BIは、建築議論のための文化センターとして、かつローカルな問題を議論するためのオランダにおける国際的なプラットフォームとなることを目指した。なぜオランダで、そのような実践的な建築教育と建築議論のための場/プラットフォームを設立することができたのか、そこには二つの理由があるようだ。
 
 前述した「Orphanage」は、 1980年代後半、建物の維持管理がされてないことを理由に取り壊しの危機に瀕していたが、ある開発企業に売却された。その後ヘルツベルハーは、「Orphanage」をオランダの大切な文化的なモニュメントとして救済して保存すべく、国際的なキャンペーンを行った。ヘルツベルハーは、最終的にオランダ政府を説得し資金援助を得ることで、このモニュメントを再建し、 BIの教育拠点として利用することができたことが一つ目の理由である。
 

「Orphanage」内の展示空間(写真提供 = 末廣香織)


 
 二つ目の理由として、このオランダ政府からの資金援助の背景には、 1989年にオランダ政府の文化大臣が主導して制作した「建築政策に関する覚書」において、建築が国の発展において重要な学問分野であることが明示されたことも関係する。その政策を支え、実践するため、建築教育機関としての BI、オランダの建築関連文書や建築作品のドキュメントのアーカイブや出版・展示・研究を担う オランダ建築博物館(The Netherlands Architecture Institute / NAi)、建築の様々な活動を資金面で援助する 建築奨励基金(Stimuleringsfonds voor Architectuur)の三つの組織の設立を決定した。著者も、日蘭友好 400周年の 2000年に日本の建築を紹介する展覧会「 Towards Totalscapeを企画・実施するために、 1999年からアシスタント・キュレーターとして NAiに籍を置いていた。
 

「Orphanage」内の学生たちのスタジオ(写真提供 = 末廣香織)


 

国際的な教育研究機関であるために

 
 そもそも BIはどのような建築教育を目指したのか。その背景から捉えていきたい。
ヘルツベルハーは、新しい建築教育において目指すべきは、排他的な建築エリートを育てることではなく、大規模な建築教育機関において失われてしまったものを取り戻すべく、小規模な教育機関としての BIを設立したのである。その失われてしまったものとは、世界のグローバリゼーションによって、あるいは近代化のなかで建てられた建築はその地域に根ざしたものではなく、地域の個性が失われ、都市が均質化してしまったこと、また巨大な資本に飲み込まれた表層のデザインだけの議論となり、本来考えるべき時代性や社会における建築の本質、建築家のあり方を問う議論が無くなってしまったこと、ではないだろうか。ヘルツベルハーは、「オランダは世界の中心にはなれないが、素晴らしい近代建築の存在によって、その歴史を引き継ぎ次なる時代の建築を考える国際的なプラットフォーム」となる BIの創設を考えたのである。 BIがスタートしてから、オランダ国内外の著名な建築家や批評家、歴史家たちの多くが BIでの教育に携わっており、建築家の エリア・ゼンゲリス、彼の AAでの教え子である レム・コールハースザハ・ハディド、歴史家・批評家の ケネス・フランプトン、建築家・建築史家の ジャン=ルイ・コーエン、建築家の ヴィニー・マース、そして日本からは 伊東豊雄妹島和世、など枚挙にいとまがない。
 
 BI1990年にスタートし 2012年にデルフト工科大学に吸収されるまで、四人の建築家の校長がそれぞれのヴィジョンを掲げて、2年間の大学院 (postgraduate)としての建築教育を実践してきた。 BI初代校長のヘルツベルハーは、 BIにおいて単一の支配的イデオロギーが存在しないことを重視し、校長職を5年制とした。それは、次に校長を務める人物には、 BIの国際的な側面を維持すること。また BIの研究志向を裏付けること、そして新しい世代の建築家を紹介することを求め、それらによって世界有数の建築スクールとして存続させることを期待したからである。ヘルツベルハーの退任後の 1995年から 2001年までの二代目の校長には、オランダの建築家 ウィール・アレッツが務めた。すでに着任前から BIでの教育に携わっていたアレッツはボヤースキー時代の AAスクールでユニット・マスターを務め (198892)、また ベルナール・チュミに呼ばれてコロンビア大学( 1990-94年)で教鞭を執っており、それらの教育経験が BIの教育に大いに活かされた。そして三代目の校長は、日本で横浜港大桟橋国際客船ターミナルを設計した アレハンドロ・ザエラ・ポロ2001年から 2005年まで務めた。ポロも AAスクールや BIでもすでに教鞭を執った経験を持ち、また OMAでの勤務経験もあった。ポロは OMAのボスである、コールハースから「建築の論客」としても高く評価されていたことで知られる。 BIの最後の校長には、 1991年にプロジェクト・コーディネーターとして招聘され、 1995年以降、常勤のコース・ディレクターであった ヴェドラン・ミミツァ2007年から BI がデルフトに移行するまでの 2012年まで務めている。
 
 BI では当初、建築教育において学生という個人を重視し、個人による研究・作業を教育方針として推し進めていた。おそらくそれは、ヘルツベルハーが「子供自身に備わる自立する力」を唱える モンテッソーリの教育施設を設計したことも大きく関係しているのだろう。ヘルツベルハーは、建築デザインとは、個人の内面から生まれるものであり、簡単に教えられるものではなく、教えられることはその「正しい心構え」であるとしていた。つまり心構えとは、社会における建築の意味や役割を、国際的な文脈においても、建築家として自身の建築思想をもって構えておくということと考えられる。
 
 しかし二代目のアレッツが校長になった際にそれまでの5年間の学生評価の結果を踏まえ、「理論と歴史」の側面を強化することや修了のための Thesis workでは1つに集中してプロジェクトを進めること、また個人研究を大事にしつつも、チームによる共同プロジェクト中心としたプログラムにするなど、教育方針を見直した。その背景には「現代社会の現実に高度に対応するためには、集団的な取り組みや思考が必要である」というアレッツの考えがある。一方で、世界的な建築の動向として、リアルに、そして具体的なプロジェクトの進め方から、設計における建築の形態・表現・ストーリー設定を、よりコンセプチュアルに深掘りさせながら提案していく教育手法へと変わっていった。またアレッツが校長時代には、アレッツがコロンビアで教鞭を執った 90年代初頭、アメリカ建築のアプローチが世界の建築議論の中心でもあったことから、 スタン・アレンエリザベス・ディラーハニ・ラシッドグレッグ・リンなど、多くのアメリカ人建築家が BIでスタジオや短期のワークショップ、レクチャーを担当した。コンセプチュアルに建築を考えるというアプローチによって、 BIでの研究や議論における建築の主題も変わりつつあったに違いない。
 

BIの初期のアニュアル・ブックレット「Cahier」


 

オランダの横断的的アプローチとマーケット志向の建築の登場

 
 BIが始まる前の1980年代、オランダにおける建築がどこに向かっていたのかを捉えるために、オランダ・アムステルダムの大規模な再開発プロジェクトが示す横断型、ホリゾンタルな関係性、「ダッチ・モデル」に触れる必要がある。
 
 アムステルダムは、17世紀に世界の貿易港として栄えた黄金時代を経て、19世紀の鉄道敷設で開発された東部港湾地区が20世紀初頭にかけて繁栄した。しかし、東部港湾地区は第二次世界大戦後にコンテナ船のための西部港湾地区が開発されたことで衰退してしまった。この状況に対してアムステルダム市は、1975年、東部港湾地区を住宅地として再開発することを決定し、1986年に市の住宅政策の変更により、国の助成を受ける賃貸型ソーシャル・ハウジング計画から、多くの分譲住宅や助成を受けない賃貸住宅計画へと変更された。これはオランダ都市計画史上の大事件の一つであった。再開発においては、マーケットを意識した特徴のある都市計画、魅力的な建築が必要とされ、オランダの集合住宅の建築は、この再開発プロジェクトを契機に、これまでのソーシャル・ハウジングのデザインにみられるような均質なものから、住民のライフスタイルに合わせて多様なデザインから選択できる住宅供給へと大きな舵を切った。特に東部港湾地区のボルネオ・スポールンブルグ島の再開発では「低層高密度」をキーワードとした共同性と個性の両側面を表現したユニークなデザインが大成功を収め、マスタープランを担当したWEST8のランドスケープ・アーキテクトアードリアン・グーズのような若手デザイナーのほか、都市計画課、開発グループ、建築家が協働してワークショップを行うオランダ的な横割りの「異分野横断的チーム」による計画のメカニズムにその特色が現れている。こうした方法で計画のヴィジョンは深まり、さらには迅速でフレキシブル、かつ合理的な形でプロジェクトが進められ、このような横断型、ホリゾンタルな関係性は、「ダッチ・モデル」と呼ばれた。
 
 こうした「ダッチ・モデル」がBIでの教育にも現れている。BIでは、社会にコミットした実践的なデザインが思考できるよう、リアリティのある設計課題の設定が多い。例えば、アムステルダム郊外にある、当時スラム化していたソーシャル・ハウジング〈バイルマミーア〉を対象とした課題「The Bijlmermeer Projectやアムステルダムの港湾エリアでの新しい住環境の未来を考える「The Amsterdam Waterfront Projectなどからみても理解できる。また学生達が建築を思考する際には、他分野の学問領域からも学際的、そして横断的に深めていくことができる形で、設計課題が丁寧に練られていたことも、オランダ的なアプローチ「ダッチ・モデル」を踏襲している一つだろう。
 

課題プロジェクトに深く向き合う、真剣な議論の場

 
 三人の校長に共通する建築家教育に対して、「建築家とは無批判でイデオロギー的な構造を否定し、社会に対する批評性のヴィジョンを明示する必要がある。そのために、BIは議論の場を提供する」という思想が根底にはあった。そこに向けたカリキュラムとしては、1ターム(12週間)をかけて、1年目に取り組む「Core Design Project」では、課題の内容が濃く、質の高いものであったようだ。そこでは担当する教授と学生との間でテーマに関する真剣な議論が設計に入る前に徹底的に交わされる。提示されたテーマに対して、学生から厳しい批判を突きつけられることもあったようだ。これは、教員と学生達がフラットな関係であることを示している。また「Master Class」と呼ばれる、1週間程度のデザイン・ワークショップでは、世界各国から建築家のスティーブン・ホールやデヴィッド・チッパーフィールドや批評家が招聘された。フランプトンやオランダの批評家ハンス・ファン・ダイクやスペインの批評家イグナシ・デ・ソラ-モラレス等による1945年から1992年までの建築を対象にした「Contemporary Criticismという興味深い批評課題も展開された。短期間のなかで、学生達は建築家や批評家達が提示するプロジェクトに対して、その課題に込められた意図を追究すべく激しい議論を交わし、グループワークとしてリサーチ、デザインに取り組み、多様な建築的思考とアプローチを集中して学ぶことができた。
 
 BIでは、在学中の2年間をかけて取り組む重要な修士研究「Thesis(設計あるいは論文)をゼンゲリスがチューターとして担当していた。しかしアレッツの時代になると、学生数も増えたことから、オランダの歴史家・批評家であるバート・ローツマが論文担当のチューターとして、建築事務所とリサーチラボ「CHORAを主宰していたロンドンを拠点するオランダ人建築家ラウール・ブンショーテンが設計担当のチューターとして招聘され、三人から一人のチューターを選び、修士研究を完成させる新たな仕組みが作られた。ブンショーテンはカリスマ性があり、教育においてユニークなアプローチを展開した。学生達とはテーブルを囲んで対話し、彼等が求める限り議論を続けるほど、学生一人一人の個性を捉えながら情熱をもって献身的に教育をしていたことで知られる。教員と学生が激しい議論を交わすことのできるこうした関係性は、オランダらしくフラットで、かつ水平的なものであったと言えるだろう。この教員との水平的な議論を展開するにあたっては、学生自身も自分のテーマを持っていることが求められる。つまり、課題で提示されるテーマを常に自分のテーマに引き寄せながら、教員に質疑を繰り返し、問いを立て、建築へと展開していく能力が必要であった。
 
 BIの教育で交わされた議論や研究内容は、その後、「Cahier」や「Berlage paper」Hunch」といった出版物やレクチャーで展開させた。レクチャーは毎週のように企画され、オランダ各地から多くの建築学生や建築家が集まった。また展覧会で発表し社会との対話を試みることで、BIという教育・研究の場に対しての、また教員・学生に対する批評性を得ることができたであろう。このように議論の場であるBIそのものが、建築メディアであったとも言えるのではないか。
 

BIの2世代目のアニュアル・ブックレット「hunch」

 

 

個の思想を醸成する建築家教育

 
 BIでは様々なかたちで建築の議論が展開されていた。課題に込められた建築家の問いに対して、世界で活躍するスター建築家であっても学生から常に批評される時間と空間がBIにはあった。その議論の場の存在は、建築の本質とは何かを深く考え、グローバル、ローカルな視点から社会における建築、建築家の役割は何かを真摯に考え合う環境の構築に貢献したと言えるだろう。
 
 最後に、BIのデルフト工科大学に吸収されるまでの22年間にわたる建築家教育の意義を考えたい。創設者であるヘルツベルハーは、建築家という職能を再定義する意味でも、まず「自分とは何者か、自分はどのような立場に立っているのか、自分は何を救わなければならないのか、それぞれのケースにおいてどのような形式手段が最も適切なのか自覚できるようにしなければならない」と考えていた。そのために、BIでは学生自身が個人で研究しながら思考を深めると同時に、グループワークでの共同的知性を高めていくことのできる教育プログラムが設定されたのである。途中で脱落する学生もいたようだが、結果として多くの学生が、創立当時から目指していた建築家としてのトレーニングを通じた学生自身の「質」を構築する感覚、つまり個の思想を醸成することができたのではないだろうか。そしてそれは決して学生たちだけではなく、建築家である教員もそうだったであろう。BI とは、教員と学生は対等な関係であり、個を出発点とする議論を通じて互いに学び合える場であったのだと言える。
 

[参考文献]
Herman Herzberger, 1992, ‘Do architects have any idea of what they draw’, “Berlage Cahiers 1”, 010 Publishers
Herman Herzberger, ’Introducing the Berlage’, “The Berlage Survey of the Culture, Education, and Practice of Architecture and Urbanism”,pp.29-31, NAi Publishers/Berlage Institute, 2011
Vedran Mimica, ‘Building Consciousness’, “The Berlage Survey of the Culture, Education, and Practice of Architecture and Urbanism” ,pp.83-87, NAi Publishers/Berlage Institute, 2011
Vedran Mimica, ’The Berlage Experience, THE BERLAGE AFFAIR”, pp.29-44, Actar Publishers, 2017
・ 樫本恒平、「The Berlage Institute Amsterdam(世界の建築教育58)」『建築雑誌』(vol.111, No.1391, 19967月号)
・「ダッチ・モデル」、『SD(19992月号)、鹿島出版会

 

論考作成協力
・末廣香織(建築家、九州大学人間環境学研究院教授)
・田村圭介(建築家、昭和女子大学環境デザイン学部教授)
・川邊真代(Michi & Co.Pte.Ltd CEO

(Photo = YUKAI)

寺田真理子(てらだ・まりこ)

 
横浜国立大学大学院/建築都市スクールY-GSA准教授、キュレーター
 
1990年日本女子大学家政学部住居学科卒業。1990-99年鹿島出版会SD編集部。1999-2000年オランダ建築博物館(NAi)にてアシスタント・キュレーター。2001-02年(株)インターオフィスにて、キュレーター。Vitra Museumおよび東京都現代美術館と協同で「静かなる革命 ルイス・バラガン」展をキュレーション。2007-14年横浜国立大学大学院工学研究院特任講師(2011年から都市イノベーション研究院に所属)、Y-GSAスタジオ・マネージャー。2014-18年横浜国立大学先端科学高等研究院特任准教授。2018年より現職。
 
企画編集、共著に『OURS 居住都市メソッド』(LIXIL出版)、『チッタ・ウニカーー文化を仕掛ける都市ヴェネツィアに学ぶ』(鹿島出版会)、『Creative Neighborhoods 住環境が新しい社会をつくる』(誠文堂新光社)、『都市科学事典』(春風社)など。主な展覧会企画に“Green Times”展、“Nested in the City”展、”Tokyo2050//12の都市のヴィジョン展など。
 
URL:横浜国立大学大学院/建築都市スクール"Y-GSA"

 

|ごあいさつ

 2022年度3期の建築・都市 時評「驟雨異論」を予定通りに配信することができました。これも偏にレビュアー千葉学黒石いずみ南後由和、三氏の真摯な問題意識からの発言に緊張感がこもるからこそのものです。執筆者三氏に改めて御礼申し上げます。建築・都市への眼差しが自在・闊達になることを念頭に「驟雨異論」では益々の面白さと熱気を帯びた発言を引き出してゆきたい。2023年度4期では、小野田泰明中島直人寺田真理子、各氏のレビュアーが登場します。
 

2023/04/6

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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