建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


MARIKO TERADA #4     2024.3.21

AAスクールから学ぶ「共同性」と「自律性」を育てる建築教育--「垂直的な学び」と「水平的な学び」が築く建築批評のプラットフォーム

 
 本連載では、第二回目において、AAスクールの校長であったアルヴィン・ボヤースキーが取り組んだ、1970年から72年までのサマーセッション(IID)を通じての建築教育の実験を、メディアの観点からも考察してきた。ボヤースキーのIIDから始まる教育改革は、その後、AAスクールでの建築教育とメディアづくりにおいて影響を及ぼしたのか。今日のAAスクールならではの建築教育の基礎にもつながる、その教育改革の歴史を辿り考察することは、多様性やインクルーシブな社会のあり方が求められる現在の社会において、これからの建築教育を考える上でのヒントを得られるのではないかと考えた。
 今回、ボヤースキーの教育実験を様々な論文や書籍を通じて考察・分析してみると、そもそものAAスクールの歴史の中で積み重ねられてきた建築教育のあり方やメディアの変遷を、丁寧に辿ることが重要であることが見えてきた。本論では、19世紀のAAの創設期からボヤースキーの時代まで試みられた教育実験に焦点を当てながら、建築協/AA (Architectural Association)という、を母体とする建築スクールによる組織が、メディア戦略を含む建築教育で目指したこと、その実験の意義を論ずる。
 

AAスクール誕生の歴史

 

AAスクールの校舎の前に学生によるパビリオンが設置されている2008年の様子(photo=Loz Pycock)


 AAスクールは、当時まだ建築学校が存在しない時代に、徒弟制に代わる建築教育の必要性を唱えた二人の若者たち、 Robert Kerr Charles Gray によって1847年に設立された。その職能団体は、建築家の所属する 建築協会/AAとして生まれ変わり、発足当初は日中は建築の製図工として働く建築家を対象とした夜間学校だったが、その後、協会が運営する建築学校( Architectural Association School of Architecture、以下「 AAスクール)として創設された。建築協会 /AAを母体とする AAスクールは、今日、国からの補助金で運営する一般の総合大学と異なる体制を持った建築大学である(基礎科、学部、修士課程、博士課程まで含む)その構成は  AA School CommunityAA Membership および  AA Councilによって組織されている。
 
 「建築協会 /AA」というアソシエーションの設立理念は、志を同じくする仲間たちが定期的に集まって、様々な建築の議論をするためのプラットフォームとなることを前提としており、教育機関の基本的な権力は、監督する権威者ではなく、学生達にあった。 AAスクールの創設においては、建築教育を根本から再定義し、教育機関の基盤には学生に主権があり、組織としても先進的な精神や自律性、民主的な姿勢をもって臨むことが目指された。この理念は現在まで受け継がれており、 2007年から 18年まで 『AA files』の編集者を務めた トーマス・ウィーバーによれば、 AAスクールの建築教育の組織としての開発モデルは大きな影響力をもち、創設以来1世紀以上にわたり、スクールの内外に対して、晩餐会や舞踏会、パーティ、演劇といった様々なプログラムを、イギリス、そして世界の建築文化における主要な動きの多くに直接的な背景を提供することができたようである。 *1
 

建築協会/AAという組織としてのメディア戦略

 
 このような建築協会/AAの設立背景のなか、その後にスタートしたAAスクールでつくられたメディアの変遷をたどっておきたい。
 
 1847年の建築協会/AAの設立趣意書には、機関誌や書籍といった出版物の制作が義務づけられていた。最初の出版事業は、1861年の会員向け冊子『The Brown Books』で、会員リストや会議の日程、授業のシラバス、図書館室蔵新刊本の案内などが紹介された。この冊子は1920年まで続いた後、1923年からはダイアリーが加わり、その後「イベント・リスト」となり、現在まで続いている。この冊子の他、1867年に建築協会/AAにとっては本格的な出版物として『AA Sketchbook』が発行され、1923年まで続いた。これは、建築協会/AA会員の夏期の活動の一環として記録されたもので、中世時代の建物を対象とした建築物のスケッチ、エッチング、リトグラフ、実測図などを紹介した。
 
 1887年に二番目の公式な機関誌として出版された『AA Notes』は、後に編集委員会が組織され、建築協会/AAの運営方針や設計コンペの受賞作品、授業での作品、連載シリーズなどが、多くの執筆者により紹介・掲載された。この『AA Notes』は1905年まで継続され、その後、内容構成を継承しながら『AA Journal』として1965年まで、さらに雑誌名とデザインを変えて、『Arena』として1972年まで引き継がれていく。この時期、AAスクールには、ピーター・クックなどが在籍し、チューターとして若きボヤースキーなどがおり、編集委員としても活動していた。『Arena』では、当時活躍していたチームXアーキグラムアリソン&ピータ・スミッソンの紹介、あるいはチャールズ・ジェンクスなどの建築家の文章で特集が構成された。情報がなく正式な設立時期は不明であるが、建築協会/AA内には、機関誌、書籍の出版を行うAA Publicationsが立ち上がり、現在でも出版活動を広く行っている。
 

ボヤースキーの改革と実験1:メディア・プロダクションを通じた、AAスクールの国際的な評価の獲得

 
 そのようなAAスクールの歴史的背景のなか、1971年にボヤースキーがAAスクールの学長として着任する。当時のエドワード・ヒース政権において、改革派の教育大臣を務めていたマーガレット・サッチャーによってあらゆる国家支援が打ち切られ、インディペンデントな建築学校のポリテクニックや大学への統合・提携が求められた。建築協会/AAは、ロンドンのインペリアル・カレッジとの提携の可能性を模索したが、ボヤースキーをはじめとする独立派の意見が強く、その案は撤回された。ボヤースキーは、大学合併によってイギリスの大学として学校を正常化するのではなく、これからは独立性を維持するべく、国際的な建築の組織として継続させようと考え、その方向に教育改革の舵を切った。建築教育として、多様な教員やスタイルのメニューによって多様性や国際性を打ち出し、そしてアヴァンギャルドな組織にしようとした。それらを支えるものとして、建築教育のなかで建築出版物をはじめとする、「メディア・プロダクション」を大きな柱としたのである。また個別の定期刊行物というよりは、大量に出版し発売することによって自己正当化が伴うコミュニケーション形態のプラットフォームを登場させた。そのプラットフォームに、彼の周辺にいる面白いアイデアをもつ建築家や理論家を積極的に招聘し、彼らの思想を学生にアピールするために展覧会を開催し、書籍をつくることで、世界的規模で建築協会/AAをプロモートし、世界にAAスクールの存在を知らしめた。このような自分たちの関心のある建築家を世界から招聘しての展覧会やレクチャーの企画、また本の制作・出版というメディアづくりは、そもそもの建築協会/AAとしての精神と伝統に基づき発展させてきたものでもある。
 

『AA Files』1号(左/引用元=https://aabookshop.net/?wpsc-product=aa-files-1)と77号(右)の表紙

 

 ボヤースキーが学長時代、1981年にメアリー・ウォールを編集長に迎え、機関誌『AAQ』に替わる新しいフォーマットの『AA Files』をスタートさせた。建築スクールの責任者であるボヤースキーは雑誌の責任をも負い、エディトリアル・ボードとしての立場もとった。この『AA Files』の企画・出版は、エディトリアル・ボードを通して計画される。そのため、建築協会という内向的な組織からの意見と、建築スクールという世界に開かれた教育機関からの意見のもとでは、方向性の決定が難しく、より広い建築の主題、受容的なものにならざるを得ない場合もあったようだ。なおこの『AA Files』は、40年以上にわたって現在も出版されており、最新号として79号まで出版されている。
 

ボヤースキーの改革と実験2:ユニット・システムにみる垂直的な学び

 
 ボヤースキーの教育改革において重要なのは、AAスクールで培われた「ユニット・システム」による建築教育のモデルである。この「ユニット・システム」は、そもそも1936年に、当時の学長E.A.A.ロウズが初めて導入したもので、1930年代に当時のフランスのボザール方式による、美しい図面の描き方や過去の建築様式の使い方をトレーニングする教育方法から、ドイツのバウハウスの社会美学的プログラムの拡張を意識し、都市計画や現代建築の設計する上で、調査・分析・提案するというデザイン・プロセスに重点を置いたものであった。それまでの1年生から5年生を学年ごとに分けて行う横割りの教育方法から、毎学期少人数の学生を15人の小単位の「ユニット」に縦割りにして、各ユニットのチューターにプログラムを実施させた。これまでの個人プロジェクトから、一部グループとしての協同作業を取り入れ、より現実の設計プロセスの形に近い教育モデルを開発した。当時の状況には性急すぎたこの「ユニット・システム」による建築教育は、モダニズム建築に対するイギリス内の反発と適応を反映した大きな議論を起こし、最終的にロウズを退任へと追い込んだ。結果、旧来の教育方法を求める声から一部学年制のカリキュラムに戻るなど、ユニット・システム本来の意義を失った。
 
 その後、時を経て、1966年から70年までボヤースキーの前任の学長として務めたジョン・ロイドは、1967年にAAスクールの戦後のモダニズム的なカリキュラムを改革し、「ユニット・システム」を復活させた。またロイドは、AAスクールの伝統において学生自身の建築教育の形成に「選択の自由」がない、という点を問題視し、「カリキュラムの教育から個人の意思による教育へと重点を移」し、学年制をあらためて廃止した。ロイドのユニット・システムでは1年生は基礎的な学びを、そして5年生は自主的な研究活動を行うこと、2年、3年、4年生は、「ミドルスクール」としてのプログラムの実験に取り組み、あらためて学年を横断して垂直的に学べるユニット・システムを配置した。この改革により、ユニット・マスターがユニットでの設計プログラムとその研究方法の定義と運営責任を受け持つ教育モデルが確立され、学生は自ら教育方針を決めるべく、様々なプログラムを自由に「選択する」ことができた。ロイドは、「ユニット・システム」を通じて、学生をジェネラリストとして育てようと、民主的な建築教育のモデル構築の実践に取り組もうとしていた。しかし、AAスクールとインペリアル・カレッジとの統合問題で組織的危機に瀕するなか、1970年にロイドは辞任。その後任の選出では、AAスクールの卒業生であり、教鞭も執っていた建築史家のケネス・フランプトンとボヤースキーの闘いとなり、結果、1971年の秋学期にボヤースキーが新しい学長として就任する。
 
 ボヤースキーは就任後、『AA Newssheet』という紙面で自身をはじめ、教職員や学生達を対象にロイドの建築教育のモデルの有効性をアンケート調査し、その評価を試みた。アンケートの結果、ロイドの教育方針は極めて民主的であり、学生が自らの責任において教育プログラムを組む「選択の自由」という点が評価された。ただ一方で「ジェネラリスト」の育成を謳ったことで、教育基盤の分断・断片化の課題が浮き彫りになり、ボヤースキーはAAスクールを構成する教職員や学生をはじめとする人たちとの対話から、AAスクールを再編することになった。『AA Newssheet』において、ボヤースキーは、「AAの哲学は、選択による選択のひとつである」というメッセージを唱え、新しい「ユニット・システム」の形を提案する。ボヤースキーのユニット・システムにおける戦略は、それを運営するユニット・マスターに、ユニークなアイデアや思想をもつ人を呼ぶことから始まった。また学生達がユニットを選択するための「イントロダクション・ウィーク」が設けられ、そのユニット・マスターが学生達に向けて自身のユニットのプレゼンをして、学生達はユニットを選ぶ。ユニット・マスターにとっても、毎年内容を更新しなければならず、ユニットにおいては学生たちと議論ができるかが常に問われる、生き残りの勝負をかける真剣なものであった。アイリーン・サンウーは、学生に多様な理論的立場や設計方法論の豊富な選択肢をつきつけるボヤースキーの教育モデルを「多様なメニューが整然とならぶテーブル」「マーケットプレイス」というメタファーで論じている*2。ボヤースキーの「ユニット・システム」による建築教育では、ロイドのものを発展させ、1年次に建築の基礎を学ぶ “foundation”と、2年次・3年次の“Intermediate School”で学部教育を完結させ、4年次、5年次のDiploma Schoolを設置して大学院レベルの教育を行った。ロウズにはじまり、その後のロイドによる民主的で、かつ学年をまたいだ垂直的な学びを目指した「ユニット・システム」を、ボヤースキーはさらに巧みに発展させ、現在のAAスクールでの建築教育の基盤となる教育モデルを再構築したのである。
 

これからの建築教育に向けて

 
 ボヤースキーが1970年から72年まで手がけたIIDのサマーセッションで行われた建築教育の議論において、「建築スクールのあらたな課題は単に社会を提供したり、形を与えたりすることではなく、『社会の批評家になること』である」と述べたことは、その後のAA スクールの建築教育の根幹につながる重要なまなざしであるだろう。
 
 ボヤースキーがAAスクールでの建築教育を通じて主張していたのは、設立理念にあるように、建築協会/AAは建築教育機関の組織として、「学生による自治性」を主にしながら、「独立性/Independent」「自律性/Autonomy」「民主的/ Democratic」「国際性/ International」を備えるべきであるということではなかったか。それがAAスクールのユニークさであり、AAスクールは世界的水準の建築教育機関として、世界の高い評価を得ることになった。本論では、AAスクールの特徴が顕著に見られる、ボヤースキー時代の建築教育での「ユニット・システム」、またメディアにおいては機関誌を中心に分析し論じたが、これは決して彼だけの功績ではない。AAスクールの卒業生で、現在ユニット・マスターを務める江頭慎氏は言う。「AAはアソシエーションであるため、directorchairmanAAスクールでは、時代によって「学長」の呼称が違った)がアカデミックな方針を計画運営する一方、学校にとっての重要なルールを決めるときには、学生、教職員、学内で様々な仕事につく人たちによるコミュニティが話し合い、投票して物事を決定していく民主的な精神が今も大切にされ、引き継がれている」。「こうした”Participatory Democracy(参加型の民主主義)こそが、建築協会/AAの組織として、また建築スクールとしての特徴、そして個性をつくり、それを守ってきたことで、時代や社会がかわるなかでも長く生き残れてきたのだろう」。ただ一方で、教育モデルを立ち上げるには、ボヤースキーのようなディレクターとして二つの才能が求められる。一つ目の才能とは、「まだ世の中で認められていなくても、建築の未来に向けて、学生や若い建築家たち、つまりクリエーターとしてのユニークな発想や思想を広く見出し、世の中にプロモートしていく教育者、そして編集者・キュレーターとしての才能」。二つ目は「時代や社会を読みながら、建築教育の未来に向けての青写真を描けるプロデューサー、運営者」としての才能とリーダーシップである。このような才能をもった学長の教育に対する強い思想と哲学は、確実に新しい建築家、教育者を生み出し、後世に引き継がれて循環し、また国外へも伝搬していく。事実、AAスクールの卒業生やユニット・マスターであったB.チュミナイジェル・コーツエリア・ゼンゲリスピーター・クックレム・コールハースたちは世界の大学での建築教育の実験にユニークな形で取り組んだ。彼等の教育の根幹にはボヤースキー時代のAAスクールでの教育の精神が宿っていたに違いない。
 

おわりに:大学が建築批評のプラットフォームとなって人と建築、社会をつなぐ

 
 本連載では、今回、2007年に始まったY-GSAでの「スタジオ教育」による建築教育の実践を起点に、70年代初頭のロンドンでのIID90年代のオランダでのベルラーへ・インスティチュートの取り組みを論じた。それぞれの時代、社会背景としてのその国の政策や経済的・文化的事情によって、教育改革としての取り組みやスケールが変わることは否めない。ただ建築教育の根本として、建築の根幹に求められるのは、人間が多様な社会、多様な環境のなかで安心して暮らし生きていくために必要な、建築の内と外をつなげる、人間を起点とした空間の原理と哲学ではなかろうか。この人間と社会、建築、空間をつなげる「身体性・空間性・社会性」の哲学を教えるべく、AAスクールやオランダのベルラーへ・インスティチュート、Y-GSAをはじめとした建築教育機関では、協同プロジェクトや学年をまたいだ「垂直的な学び」、そして様々な分野・領域を横断的に学ぶ「水平的な学び」の教育を実践してきた。
 
 建築教育を通じて目指すのは、ユニークな「個」を育てつつ、民主的に創造の場(状況であったり、空間そのもの)を構築できる人間を育てること。それによって学生達が社会に出たときに、都市・地域において他者と生きていくための「共同性」と「自治」へのリアルな意識となって、新しい建築や共同体のありかたを模索することになるだろう。建築教育とは、そうした次なる時代の社会・地域・建築の創造に向けて、人間から都市・建築・空間へとつなげていく包括的な学びの体系である。そしてその学びの環境として求められるのは、それは決して教員が一方的に教えるのではなく、学生同士が、また学生と教員がコミュニティ/共同体となって共に思考し、学ぶ環境を耕し続けることである。
 
 日本では、2000年代以降、『SD』や『建築文化』、『10+1』といった重要な建築専門誌、メディアが社会からなくなってしまった。今、日本社会では、これまでの専門誌のメディアに替わって建築教育の現場にでは、大学自体が建築批評のプラットフォームとなって社会と対話をすることも求められているのではないだろうか。
 

[参考文献]
*1: Thomas Weaver (ed.) “The Things Itself – AA Files and Fates of Architectural Theory”, Doctoral Dissertation, Delft University of Technology, 2020
2: Irene Sunwoo (ed.) ‘From the “Well-Laid Table” to the “Market Place:” The Architectural Association Unit System’, “Journal of Architectural Education”, Vol. 65, No. 2, Taylor & Francis, Ltd, 2012, pp. 24-41
・渡邉研司「9279 AAスクール学生による建築雑誌『フォーカス』の出版について−20世紀イギリス建築文化研究 その3」『2005年度日本建築学会大会学術講演梗概集』、日本建築学会、2005年、pp.557-558
・渡邉研司、中村宗寛「9141 AAスクールにおける初期出版物と学生誌の内容について−イギリス20世紀建築・文化研究 その6」『2007年度日本建築学会大会学術講演梗概集』、日本建築学会、2007年、pp.281-282
・渡邉研司『ロンドン 都市と建築の歴史』河出書房新社、2009

 

論考作成協力(インタビュー)
・江頭慎(建築家、AA卒業生、現ユニット・マスター)
・今村創平(建築家、AA卒業生、千葉工業大学教授)
Thomas Daniell(建築家、京都大学大学院教授)
・澤田航(建築家、AA卒業生)
・林要次(建築家、芝浦工業大学特任研究員(建築教育史))
 
論考作成協力(アンケート)
Carlos Villanueva Brandt(建築家、AA卒業生、現ユニット・マスター)
Thomas Weaver(編集者、元AA Publications編集者、MIT Press編集者)

(Photo = YUKAI)

寺田真理子(てらだ・まりこ)

 
横浜国立大学大学院/建築都市スクールY-GSA准教授、キュレーター
 
1990年日本女子大学家政学部住居学科卒業。1990-99年鹿島出版会SD編集部。1999-2000年オランダ建築博物館(NAi)にてアシスタント・キュレーター。2001-02年(株)インターオフィスにて、キュレーター。Vitra Museumおよび東京都現代美術館と協同で「静かなる革命 ルイス・バラガン」展をキュレーション。2007-14年横浜国立大学大学院工学研究院特任講師(2011年から都市イノベーション研究院に所属)、Y-GSAスタジオ・マネージャー。2014-18年横浜国立大学先端科学高等研究院特任准教授。2018年より現職。
 
企画編集、共著に『OURS 居住都市メソッド』(LIXIL出版)、『チッタ・ウニカーー文化を仕掛ける都市ヴェネツィアに学ぶ』(鹿島出版会)、『Creative Neighborhoods 住環境が新しい社会をつくる』(誠文堂新光社)、『都市科学事典』(春風社)など。主な展覧会企画に“Green Times”展、“Nested in the City”展、”Tokyo2050//12の都市のヴィジョン展など。
 
URL:横浜国立大学大学院/建築都市スクール"Y-GSA"

 

|ごあいさつ

 2022年度3期の建築・都市 時評「驟雨異論」を予定通りに配信することができました。これも偏にレビュアー千葉学黒石いずみ南後由和、三氏の真摯な問題意識からの発言に緊張感がこもるからこそのものです。執筆者三氏に改めて御礼申し上げます。建築・都市への眼差しが自在・闊達になることを念頭に「驟雨異論」では益々の面白さと熱気を帯びた発言を引き出してゆきたい。2023年度4期では、小野田泰明中島直人寺田真理子、各氏のレビュアーが登場します。
 

2023/04/6

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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